ねこの手ということ

うんまいチーズケーキが食べたいんだよ

なんでこう難儀なことに巻き込まれちゃったんですかねぇ、と思わずにいられないK部プロジェクトですが、今後1カ月をなんとか乗りきろうと思いつつ、今回これに参加する経緯とその後求められている(であろう)役割について考えてみた。当初は「ねこの手」要員としていわば「派遣」のような感覚でいいと思っていたのだけど、あけてみたら「おまえ以外にだれがやる?」という流れに身悶えした。いや、まじに。いわゆる「しまった! ヤラれた! だまされた!」の3段オチですな。単行本をひとりで作る場合、だいたいお尻が決まっていれば、逆算的にいつまでになにがないとマズイ、それもどの程度のマズさなのか、ってのは判断がつく。だから、その都度、それにあわせてヤバげなところに、さきまわりして準備しておく、という気のまわしようってのはある。ところが、今回のコレはまずもって、さきがどうなっていくのか、まるで見えない。本音を云えば、ちょっとばかりさきを知るのがこわい。ジィジが云うとおり「出すんだ!」ということなんだけど、さ……。
まあ、手伝うってことは、よぉくわかっているつもりなんだけどね。チビッコの頃、人の出入りが激しい家だったので、とにかく小学校にあがらないうちから「手伝うのはあたりまえ」ということを、まさにスパルタチックに叩き込まれた。遊びたい盛りで逃げたいし、実際逃げたら、地下室に放り込まれたり、氷点下10度のアラスカの寒空の下に放り出された。わたしの分担は皿洗い(毎度7人〜10人の大人の分)とお米をといでおく、ことだった。皿洗いがほんとに嫌いだった。洗っても洗っても減らないんだから。毎日が罪と罰のような気さえしたもんだ。お米をとぐのを忘れると、翌朝ママンが平然と「今日はごはんなし」とのたまう。こわかった、まじに。身を持って「わたしがお米の準備忘れたからだ!」と思い知らされた。そんなわけで役割というものはまかされたところをきっちりやる、というあたりまえだけど忘れがちで、ときにテンパると誰かのせいにしたくなることを、これから1カ月いかにやり通すかね〜と、口先だけは「もーしょうがないねー」とグチりながら続けていくことになるのだろう。嗚呼……。でも出さないと終われないってことなんだよ、はい。お皿は洗わないと減らないように。お米はとがないと口に入らないように