冠婚葬祭

どこかで見えないはしごをはずされているのか? と思うようなことが仕事面で続いていた矢先に、昨日、久しぶりに一家が顔を合わせる出来事があった。
週末に祖母が大往生の末、この世を去った。最期に霊安室で薄化粧をほどこしてあげた、その小1時間後に骨を拾っていたとき、無性に儚さを感じた。なんとも儚い。その間、実家のほうと都内近郊での火葬の処理能力の違いなんてことを淡々と葬儀屋さんに説明されたり、火葬場の人が「ノド仏の骨が見当たらない」と云いながら、わさわさと骨を手でまさぐりながら、なぜ女性が骨粗しょう症が多いのかと生物かなにかの授業のように語るさまに不可思議な感覚を覚えた。それを妙に納得しながら聞いていた自分にも。
祖母とは離れて暮らしていたことや、わがままな人だったので小学生にあがらない時分に距離感をどうとっていいのかわからないオトナの代表として、悩ましかったことを鮮明に覚えている。もちろん、かわいがってもらいながらも。さらに祖母の連れ合い(祖父)が、大の銭湯好きで、よく銭湯に連れて行かれたが、お風呂道具と別に大きな紙袋を持っていて「お前がいま誘拐されても大丈夫だよ」と紙袋の中の札束を見せられたときに、尋常じゃない! と子どもながらにドン引きしたことも。大人になって、もっともっとわがままな人や尋常じゃない人を見たり知ったりすると、身内というひいき目で見なくてもかわいい人たちだったなと思えるようになった。人は老いるし、その過程で子どもに戻る。そして中年太りでイヤだわ、なんて云っていた人もからだが小さくなってゆく。まるでマトリョーシカ人形みたいだと思った。胴体近くで上下に割れて、まったく同じ小ぶりの人形がその中に収まっているアレだ